母国語、日本語。
先日、初めて沖縄を訪れ、首里城を見た。
そうではなく、首里城の城壁と門だけ見た。
本土の「城」とは違って、なんだか中国的な感じがした。
中国的な感じなのに、気候のせいか、なんとなくポリネシア的な雰囲気もかもしだしている。
不思議な土地である。
沖縄には少ししか滞在しておらず、あまり人とも話さなかったけれど、それにしても「沖縄言葉」を聞かなかった。
ゆいレールは、ここは東京?と思わんばかりの都会っぷりな乗客。
鹿児島では、鹿児島言葉をあまり話さない、育ちも生まれも鹿児島の青年にも会った。
私は奈良県出身で、小学3年のときに東京へ越してきた。
越してきて言われたことが「なまっている」だ。
「なまってる、ってなんやねん?」
言葉のせいで、なかなか新しい学校に馴染めなかった。
「せーの」
という掛け声がある。
奈良では「いっせーので!」。
東京では「いっせーのせ!」。
「じゃんけんほい」
は、「じゃーんけーんで、ほーいっ!」
しかもアクセントが違うのだから、ますますおかしい。
さらにいえば、奈良は話すのがゆっくりである。
言葉の違い・アクセント・スピードの違い。
自分の思っていた「言葉」と周囲の「言葉」の違いを認識した時の悲しみは、子供ながらにツラかった。
当時の先生がよく気にかけてくれて、「関西流じゃんけんは、こうするんだ」と言って、私を壇上に呼んで実演させた。たぶん先生は、言葉や文化の違いで差別が生れかかっていることを察し、その違いこそ大事にすべきだということを伝えたかったのだと思う。
初めて鹿児島を訪れたとき、地元の人も行く共同浴場に行った。
地元のおばあちゃんたちの会話は、まるで外国語を聞いているようで理解できない。
それでいいのだ。いや、それがいいのだ。
旅の楽しみは「言葉」の楽しみでもある。
疎外感を感じた時、初めて文化の違いを認識し、それをさらに知りたいという欲求が生まれると思う。
疎外感を感じず、標準を押しつけていくのは、その土地の文化をないがしろにし、文化を奪っていると感じる。
海外へ行くと、英語が共通語である。
ぺらぺらと英語で話している日本人は意外と多い。
私なんて変な英語とムリくりの日本語とジェスチャーで逃げ切る。
あとは最低限の地元の言葉を覚え、隙あらば使ってみることにしている。
去年インドへ行った時は、ジェスチャーがヒンズー教のジェスチャーとかぶっており、別のことを表していたため地元民を怒らせる、という憂き目にも遭った。
怒っているインド人を見て、まずいことになった!とドキドキしたけれど、私はインドの文化に触れたわけである。そういう面ではいい経験だった。
私の母国語は日本語である。
中でも関西弁である。
英語は話したいと思うし、勉強もしている。
でもそれ以上に、もっと美しい日本語を話せるようになりたい、と願っている。
もっと人に伝わる文章を日本語で書きたい。
心の中にまだ残っている関西弁も、自分の遺産として大事にしたい。
関西弁に磨きもかけたい。
美しい、奥深い日本語や、特色豊かな地方の言葉を話せるのは、そこに住んでいる人だけだから。
もっと日本語を学ぼう!
もっと言葉と戯れよう!