ヘッセに学ぶ
1か月以上かかって読み続けていた本を、ついに読み終えることができた。
20世紀初頭に世界各地を旅し、手漉き紙のルーツを追い求めたダード・ハンターの自伝。興味深い話がいくつもあり、彼の生き方にも敬服した。
そして次に借りてきたのが『幸福論』(ヘルマン・ヘッセ/高橋健二訳、新潮社)。
本、というのは実に不思議で、「悩みがある、打開したいことがある」ときほど良本に巡り合う。
『幸福論』はヘッセの作品の中でも、晩年に書かれたエッセイらしい。
その中から、今日心にズシリときた一文。
「・・・非英雄的であること、英雄的でなく、単に人間的であるためには、往々より多くの勇気を必要とすることも、私は悟っていた。友人が死んだり、私にひどい損害が加えられたりすると、結局はそれに順応し、人生を正しいと認めはするが、まずその損害と悩みを現実に体験し、自分の中に取り入れ、そのやむを得ないことを認めることが、私にふさわしいことであった。・・・」
長い湯治から戻ってきたとき、自分は帰ってきたが、いろんな荷物の入ったトランクがなくなった、という場面。
損害について考えるヘッセ。
世界中のいろんな立場の人から見たら、自分の損害なんてちっぽけなもの。
でもそれを素直に受け入れられるほど、大きな人間じゃない、というのが上の引用部分。英雄の話などを出しながらも、なくなったトランクに対処する自分の心の在りようのに帰結するギャップが面白い。
確かに英雄より、凡人の方が勇気を試されることが多い。
だが結局は「損害という事実に順応」するのだ。
「損害と悩みを体験し、体内に取り入れ、認める」ことが凡人の平和的解決なのである。
上記を自分の立場に置いてみる。
仕事である。みんなやっている仕事である。苦しみはみな同じである。悩み、電話を握りしめながら、冷や汗をたらし、勇気をとびこえて電話をかけ。それを一日7時間。ほら、もう観念なさい。これは明日も明後日も続くのだ・・・。
「自分の中に取り入れ、そのやむを得ないことを認める」
という文章が、はちきれそうな心の叫びと、それをなだめる静かな行為、が想像でき、潔い心持になる。
この本を読み進めるのが楽しみな日々である。