今、なにをするか

小さな人間の、些細な日々を徒然書き綴ります。小さな改革がやがて大きな変化につながる事を信じて。

「怒りに我を忘れる」ということ

はたして。

31年目の第一歩は、タイトルの通り。

人間、すぐにいい人間になれるとは限らない。

きっと、あの世へ行くときに初めて、人間としての通信簿を渡されるのだろう。

閻魔さまの前に列をつくって

「お前は右!地獄行き!!」

「お前は左!仏の修行へ行け!!」

「お前はまた下!!やり直し!!」

とか言われて初めて、人生という心の修行を終えることができるんだろう。

 

さて。

そんなこの修羅の世界で、年に数回ぐらい「怒りに我を忘れる」。

怒る時、心の怒りバロメーターの針が限界値に触れる時、心は快感を味わっている。

そう思う。

なぜなら、今が相手を凌駕して、自分を認めさせるチャンスだから。

でも心の奥底では、理性が叫んでいる。

「そんなことをしても、なんの解決にもならない!怒ったら、また怒るしかない!!だから怒っちゃダメだ!!」

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人は誰しも「認められたい」という自己顕示欲をもっている。

ふだんは周囲の「認められたい」意思を尊重し、自分の分を抑え、相手のことを笑顔と賛辞で迎え入れる。

だけれども。

さすがに自分の文句や、人のせいにする発言や、バカにされたり蔑まされたら、自分の自己顕示欲がここぞとばかりに頭を持ち上げる。

そしてそれは「怒り」として現れ、「発散」することで相手に「認めさせる」。

 

怒りは怒りを呼ぶだけである。

憎しみは憎しみを生み、報復は人間なら当たり前の行為である。

血で血を洗う、というのはとても理解できる。

それが普通の人間なのだ。

すべては「認めてもらいたい」行為の表れなのだから。

でも。

わたしはやっぱり「憎しみの鎖」を断ち切れる人間になりたい。

 

さんざん怒ったわたしは、夕飯をつくりながら、今日なんでこんなに怒ったのか考えていた。

そうか、そんな小さなことで怒っていたのか。

落ち着いたときに考えてみて、自分がとった行動、発言を振り返ると、なんてことをしたんだ!!と、心に反省の嵐が吹き荒れた。

相手には、素直に、心から謝った。

 

「怒らない」

なんて、わたしみたいな凡人には、閻魔さまの前に立った時、できているか怪しいものである。

「隣人を愛せよ」

と言われても、インフルエンザでマスクもせず、咳をまき散らす隣人を愛することは、マザー・テレサなみの難しさだと思う。

だけれど、誰かに怒りをぶちまけたり、敵意のある行動をとったり、自分を忘れてしまう怒りの嵐をおこすのは嫌だ。

そんな「自己顕示」はいらない。

 

できることで思いつくことはただ一つ。

「落ち着いて、離れよ」

だ。

火に近付けば熱い。

でも遠ければ熱くない。

修羅の炎に近付かない。

消せる人間になることが一番だけれど、私にはまだまだ消すことはできない。

ならば近付かないのが一番だ。

怒りの火に「アチっ!」となったら、逃げよう!!

巻き込まれて大きくしてはいけない。

言葉よりも行動。

行動よりも製作。

私の自己顕示は「製作」で、心穏やかに示そう。

だからまずは火種から離れよう。

そう反省した一日だった。